展示Exhibition

特別・企画展

企画展

  • 「1891(明治24)年濃尾地震における日本赤十字社の救護活動」

    2007年9月〜

  • はじめに

    明治24年10月28日に発生した濃尾大地震は、推定M8.0〜8.4といわれる日本内陸最大の地震です。当時、日本赤十字社はまだ戦時救護以外の事業を社則に掲げていませんでしたが、この地震に際し、皇后陛下の御内旨のもと、愛知岐阜両県に12カ所の仮病院と出張所を設け、地震発生の4日目から31日間にわたり、1万人余の人々を救護しました。
    濃尾地震という大規模災害においてどのような医療上の問題が起こり、被災地に派遣された日本赤十字社の医員や看護婦はどのような救護活動を行ったのか。今回の展示てでは、本学の所蔵資料とともに、濃尾地震発生当時、日本赤十字社病院の三等助手医員であり、岐阜県出張を命じられ大野郡古橋村および武儀郡関町の仮病院で救護を行った小山善の記録史料をもとに、濃尾地震における日本赤十字社の救護活動の実際を見てみたいと思います。

    第六号名古屋天守閣及清須槽地震后ノ図

    第六号名古屋天守閣及清州櫓地震后ノ図
    中村牧陽撮影 明治24年
    日本赤十字看護大学所蔵

    岐阜県管内震災強弱図

    岐阜県管内震災強弱図
    岐阜県知事官房編『岐阜県下震災景況』 明治24年
    日本赤十字看護大学所蔵

  • 1. 日本赤十字社の災害救護の始まり

    日本赤十字社の災害救護は、明治21年の磐梯山噴火における救護が初めてです。当時、日本赤十字社は、社則に戦時救護以外の活動を規定していなかったので、それに続く明治23年のトルコ軍艦沈没と明治24年の濃尾地震までは、皇后陛下の御内旨として救護が行われました。明治25年、これらの実績をふまえ、正式に災害救護が社の平時事業として規定されました。
    日本の災害対策が、長い歴史にわたって風水害や干ばつ等の窮民の生活保護を主眼としてきたなかで、日本赤十字社は災害発生とともに迅速に出動し、質の高い医療を行うシステムをつくり、 日本の災害医療の歴史に新たな分野を拓きました。
    創立から昭和20年の太平洋戦争終結までに、日本赤十字社が災害で救護員を派遣した件数は526件、その内訳は風水害148件、火災が269件、暴動25件、地震19件、列車事故17件、伝染病流行19件です。これら災害時の救護派遣件数は戦時を上回り、日本赤十字社が世界に向けてアピールできる側面となっています。

    明治21年磐梯山噴火での災害救護

    明治21年 磐梯山噴火での災害救護
    日本赤十字社所蔵

    日本赤十字社にとって初めての災害救護。

    明治29年三陸海嘯で派遣された看護婦

    明治29年 三陸海嘯で派遣された看護婦
    荻原タケ遺品 日本赤十字看護大学所蔵

    6月15日(M7.6)。津波の被害は宮城、岩手、青森の3県に及び、死者約2万人、負傷者4千人、家屋流出約2万棟の被害が出た。

    大正12年関東大震災における救護

    大正12年 関東大震災における救護
    日本赤十字看護大学所蔵

    9月1日(M7.9)。死者・負傷者それぞれ約10万人、行方不明約4万人。日本赤十字社も本社建物を焼失。救護班130、救護員199万7千余人に上る大規模な救護活動を実施した。

  • 2. 濃尾地震における救護

    濃尾地震

    明治24年10月28日午前6時37分に発生。轟音とともに激震が起こり、家屋が倒壊し、直後に火災が発生、市街地の半分が焼失しました。死因は圧死または梁に敷かれたままの焼死、負傷者の創は頭部や顔面の裂傷、腰から下の挫傷が多かったといいます。現地では医療材料の圧倒的な不足と医師らの負傷により病院が機能せず、押し寄せた患者は病院の外にまで拡がり、なすすべもなく呻吟する声が響きました。

    第十三号西春日井郡清洲本町被害ノ図

    第十三号西春日井郡清洲本町被害ノ図
    中村牧陽撮影 明治24年 日本赤十字看護大学所蔵

    第一号名古屋郵便電信局破壊ノ真景

    第一号名古屋郵便電信局破壊ノ真景
    中村牧陽撮影 明治24年 日本赤十字看護大学所蔵

    当時流行した煉瓦造りの建物。地震により倒壊し、落下した
    煉瓦により頭部を打撲し、負傷したり死亡するものが続出。

    地震当日、愛知県、岐阜県の両知事は会議にて東京に出張中でしたが、内務省宛に送られてくる報告を聞き、すぐさま帰郷しました。負傷者が多く、現地での医療では対応できないとの判断から、愛知県知事は29日午後に、岐阜県知事は同日夜に救護員の派遣を要請する電報を日本赤十字社に送りました。
    これをうけて日本赤十字社の佐野常民社長は皇后陛下に拝謁し、救護員派遣の御内旨を得ました。急遽、渋谷に移転したばかりの日本赤十字社病院では、医員看護婦と救護材料を準備、愛知へは29日午後9時50分、岐阜へは30日午前8時発の汽車で出発しました。

    派遣された救護員

    第1回愛知県出張員の編成は医員2名、看護婦4名でした。岐阜県出張員の編成は被害がさらに甚大との報告を受け、事務員1名、医員3名、看護婦6名としました。前年の明治23年より日本赤十字社病院で養成が開始され、1年半の学業を終えたばかりの本学の第1回生も参加していました。
    出発する卒業生に対して佐野常民社長は、習得した看護法を実地に応用することの他、「至誠以て救護に従事すべきこと」、「奮勉以て難苦を堪へきこと」、「節操以て品行を慎むこと」の3つの要件を厳守すべきと訓示しています。負傷兵を敵味方の別なく救護するかのように貴賎貧富に分かたず懇篤に看護を行うこと、霜や風雨に冒され、山野の間に夥多なる患者を救護するのだから不堯不屈の精神でこれにあたること、そしてその功績が水の泡にならぬよう品行を保ち、本社看護婦たる名誉を失墜してはならないと申し添えました。

    青柳ナオ(左)曾我鏗爾(右)日本赤十字社病院看護婦養成所第1回生

    青柳ナオ(左)曾我鏗爾(右)
    日本赤十字社病院看護婦養成所第1回生
    日本赤十字看護大学所蔵

    明治23年に開始された日本赤十字社病院での看護婦養成の第1回生。
    濃尾地震当時、1年半の学業を終えて、実務についたばかりであった。

    日本赤十字社の救護成績

    結果、日本赤十字社は両県に設置された全救護所56カ所のうち愛知県(犬山、小牧、小折、岩倉、蟹江、甚目寺)、岐阜県(古橋、鵜沼、関、佐波、美江津、大垣)等の計12カ所を担当しました。救護期間は10月31日(発生後4日目)から31日間、医員31名(名古屋支部医員19名、京都支部医員3名を含む)、看護婦21名(うち10名は看護婦養成所の第一回生)、調剤員2名、事務員2名を派遣し、患者総数入院、外来あわせて10,194名(再来患者を含む)を診療しました。そのうち死亡者は入院患者10人、外来患者1人でした。この地震では、日本赤十字社が創立以来取り組んできた本部支部による体制づくり、人員材料の準備が役に立ちました。全国各地の新聞で、日本赤十字社をはじめ救護団体の活動が報道され、災害により人命と尊厳が脅かされる場面での人道的な救護の価値を広く伝えるものとなりました。

    赤十字社出張仮病院丹波郡小折村に於て震災重症患者治療の現況

    赤十字社出張仮病院丹波郡小折村に於て
    震災重症患者治療の現況
    中村牧陽撮影 明治24年 日本赤十字看護大学所蔵

    愛知県に設置した仮病院での治療の様子。愛知県では周辺5カ所に出張所を設け、軍医や名古屋支部医員らの協力のもと治療を行なった。

    岐阜県大野郡古橋村日本赤十字社仮病院診察場の実況

    岐阜県大野郡古橋村日本赤十字社
    仮病院診察場の実況
    撮影者不明 明治24年 日本赤十字看護大学所蔵

    岐阜県には本社が大野郡古橋村と武儀郡関町の2カ所に、京都支部が大垣村に1カ所に仮病院を設け、周辺に3カ所の出張所を設けた。

    濃尾地震における京都支部仮病院の患者たち

    濃尾地震における京都支部仮病院の患者たち  
    日本赤十字社『日本赤十字社創立125周年記念展』より

    岐阜県大垣に設置された同志社病院、京都医会と合同で治療を行なった。

  • 3. 武儀郡関町での救護の実際

    小山の記録史料
    小山善の記録史料

    小山善の記録史料(個人蔵)

    左の写真は日本赤十字社病院の三等助手医員であった小山善氏(以下小山とする)の記録史料です。小山はこの地震にて岐阜県出張を命じられ、大野郡古橋村および武儀郡関町の仮病院で救護を行い、一医員の立場から多くの記録を残しました。
    小山の記録史料からは、小山が関町に出張することになった経緯、実際の関町の被害状況、仮病院の様子、負傷者の診療内容、救護班の撤退など、公的な文書からは知ることのできない医療救護の実態や、大規模な地震災害での病院施設の確保の困難さ、災害弱者への特別な対応の必要性、被災者の心のケア、また被災地組織との協力や早期の復興支援の重要性など、今日と共通する課題を見ることができます。

    関町の被害と出張の経緯

    武儀郡関町の市街では火災が発生し、半分の地域が焼失しました。下記は、小山が関町で見聞きし、電報及び報告控に記した被災者の記録です。

    三浦文吉は震動後一時、家の外に這い出しが文吉の父母弟の3名が半壊の家屋に残され救助を求めたので再び家の中へ飛び込んだ。すると家は全壊となり父弟の叫び声が止んだ。母は幸いにも外へ這い出したが、救助に入った文吉は家屋が全壊した際に両足を桁梁に挟まれ、這い出そうとするもかなわなかった。文吉自らその屋根板を破り半身家外に出て救助を求めたが桁梁が重く容易に救いだせなかった。その内火が家に燃え移り今にも文吉の体に燃え移ろうとしていた。その際苦痛に耐えきれず、合掌して殺してくれと願ったが応じる者はなかった。生きながら父弟と3人は焼死した。

    関町では4名いた医師のうち2名が火災により負傷、1名の漢方医は外科的治療を行えず、また西洋医は地震により医療材料を失い、治療できない状態となりました。負傷者は警察に押し寄せ、警察官は機転を利かせ、夏の伝染病流行の際に使用する石炭酸で重傷35人の創傷を洗浄し繃帯をしましたが、続々と患者が集まり、それ以上処置ができなくなりました。岐阜市に医師派遣を要請しますが、市内も同じく被害が甚大で請求には応じてもらえませんでした。そのため関町の警察署長は岐阜県庁に医師の派遣を要請し、それに日本赤十字社が応えることになったのでした。11月4日、日本赤十字社から派遣された第2回出張員のうち看護婦4名がまず関町に到着し、翌日5日午後2時には、大野郡古橋村より小山、大森医員が到着、日本赤十字社関町仮病院が設置されました。関町の赤十字仮病院現地では医員たちの到着前から、警察所の隣に仮小屋を立て、負傷者を集めて待っていたために、医員たちの到着に大変喜びました。

    関町の仮病院

    最初に仮病院となった仮小屋は、焼失地に建てられた藁葺き小屋で、床には藁を敷きつめその上に畳を敷いたもので、幕を張って遮光や戸の代わりとしていました。小山は当初より、この仮小屋では雨や湿気を防げず、感染症などが発生する恐れがあると考え、被害の少なかった近隣の学校か劇場を仮病院としたいと主張しましたが、みな余震を恐れてなかなか移転できませんでした。
    11月11日にようやく学校に移転します。その仮病院は講堂の2室(各15坪)を男子と女子の病室とし、男子の病室に向かう6畳一間を看護室とするものでした。風通しも良く、障子戸で光線を和らげることもできました。仮病院には、赤十字の旗と提灯が掲げられ、赤十字社第二関町仮病院の表札が掲げられました。住民は治療風景がめずらしく見世物小屋のように集まってきたため、警察が取り締まり、手術は人の少ない夜間に行いました。警察は住民の家の戸を一軒ずつ訪問し、生存状況や負傷者の有無を確認しました。
    また住民に日本赤十字社の由来や、皇后陛下の下賜により治療が無料であることを語って聞かせ、負傷者には受診を勧めたとあります。また診察に訪れる患者を整理し、患者や日本赤十字社の出張員に食事を用意したりするなどして協力しました。

    岐阜県武儀郡関町日本赤十字社仮病院

    岐阜県武儀郡関町日本赤十字社仮病院
    撮影者不明 明治24年 日本赤十字看護大学所蔵

    小山の鉛筆書きメモ 明治24年

    小山の鉛筆書きメモ
    明治24年 個人蔵

    警察の監査のもと負傷者をモッコで仮病院まで運ぶ人々(左)と負傷者の頭部の創(右)

    関町での救護の実際

    関町の負傷者は、棟・梁・柱・壁などの落下が原因による打撲(半数が胸と腰)が最も多く、次に骨折・脱臼が続きました。全数の10分の1が重傷者で、腰部打撲による脊髄炎症のため、下肢麻痺・尿便閉をきたすものもいました。その他裂傷・挫創がありましたが、四肢の切断を要するものはいませんでした。被災地のほとんどの人々が、骨折脱臼は古来の整骨術になければ治療できないものと信じ、民間の施術家に依頼しましたが、やがて関町でも日本赤十字社の評判を聞いて治療を受けにくる者が増加し、遠方からわざわざ治療を受けにくる人もいました。
    治療では、裂傷、刺傷などで化膿している場合には、クロロホルムを麻酔として使用して手術を行い、切開排膿、洗浄しました。手術後の経過は順調で発熱や合併症はほとんど起こらず、人々は驚異的な回復力で治癒したと記録されています。骨折では上肢はギプスを当て、下肢には大工につくらせた斜面あるいは副木を用いて整復しました。なお斜面、離被架、添え木、便器等は現地の手作りでした。脱臼は整復して環納後、安静によって治療しました。関町では切断手術は行われませんでしたが、周辺の仮病院を巡回した小山は施行された切断手術の成績が13人中の8人が死亡するなど好ましくなかったことを記録に残しています。最終的には、関町で278名を治療しました。
    治療場面における看護婦の活動については詳しい記述がありませんが、記録写真には看護婦が負傷者を担架で輸送する姿や、看護婦が頭部外傷部位などを洗浄している姿が写っています。看護婦たちは手術にあたって医療器具の消毒、洗浄、包帯交換などを行ったと考えられます。小山は日本赤十字社病院で看護婦生徒に繃帯法を教えている立場でもありました。

    看護婦の精動『電報及報告控』明治24年11月14日付

    看護婦の精動『電報及報告控』
    明治24年11月14日付 個人蔵

    看護婦4名いずれも健康で精勤。評判良く、夜も交代して徹夜で看護している。

    入院患者の様子

    入院については、不在中の家具財産や老人や乳幼児などを心配して、嫌がる傾向があったので、状況に応じて自宅療養を許可し、往診を行いました。入院患者の衣類・食事は持ち込みとなっており、持ち込むことができない場合、衣類は日赤から、食事は警察から支給されました。
    骨折や脱臼の治療のため安静を余儀なくされていたためか、入院患者の便秘が問題となったことも記録されています。ヒマシ油を用いたところ大量の便が排泄され、包帯を汚すなどして看護婦らが大変困惑したこと、小山が看護婦へなお一層患者に懇篤丁寧に接するよう注意を促したことなどの記録があります。日中暖かいときには、入浴できる患者には入浴をさせ、また入浴できないものは念入りに拭浄法(清拭)を行ったこと、男性患者に髭剃りが行われました。

    体温表 明治24年11月4日〜11月30日

    体温表
    明治24年11月4日〜11月30日 個人蔵

    被災者の生活

    被災者たちは余震で倒壊することを恐れて自宅には住まず、裕福な人たちは竹藪や桑畑に仮小屋を建てて住み、貧しい人たちは古い戸板や木々を集めて住み、その中で寝泊まりしました。地震発生から1カ月近くたっても大砲のような音とともに余震が来ることもあり、その都度家から飛び出しました。また11月30日までに大きな地震がやってくるという流言もあり、人心は落ち着きませんでした。
    関町では地震発生から10日間は炊き出しがあり、1200人余りが食事をしましたという。また地震によってしばらく井戸の水は濁ったままでした。貧しい人たちの生活復興は大きな問題で、瓦礫運びなどによって賃金を与えるなどの他、北海道への移住などの議論もありました。物価は警察により統制されていました。
    11月でしたが気候は寒く、27日には初雪が観測されました。仮小屋にすむ貧しい人々については寒さ、栄養状態、衛生状態の悪化から、感染症が蔓延することが心配されました。

    第十七号葉栗郡黒田村窮民焚出場ノ図

    第十七号 葉栗郡黒田村窮民焚出場ノ図
    中村牧陽撮影 明治24年 日本赤十字看護大学所蔵

    引き上げ

    小山はすでに11月7日の時点で、警察署長と協議して、在住の町医の都合がつき次第、助力を依頼し、徐々に開業医ら4名一緒に負傷者の救護に従事できるようにし、消毒材料を与えて自分たちは古橋村に戻るつもりであると記録しています。
    実際には11月19日から、開業医の3名(別課医学生西尾一二、旧愛知病院医牧野長太郎、江馬春齢同窓太田敬一)とその書生3名が外科診察を担当することになりました。現地の住民と県庁の意向もあり、開業医らによる診療の体制が整うまで11月30日まで在留しました。12月1日には開業医らの監督のための医員1名を残し、引き上げとなりました。

  • 4. 現代の災害と救護

    現代では日本赤十字社の災害救護は、赤十字の人道的任務として自主的判断に基づいて行われるとともに、災害対策基本法や国民保護法における指定公共機関として、国や地方公共団体の行う業務に協力して行われています。実際の活動では国の内外に関わらず、発災直後の緊急救援から、被災者の自立を支援する中・長期的な活動まで、様々な災害救護活動を展開しています。

    海岸の被害スマトラ沖地震 平成16年

    海岸の被害 スマトラ沖地震 平成16年
    日本赤十字社医療センター所蔵

    12月26日発生(M9.0)。大規模な津波がおき、死者22万人、被災者500万人の被害が出た。クリスマス休暇のシーズンだったため、日本や欧米諸国の観光客も多数被害にあった。

    予防接種 スマトラ沖地震 平成16年

    予防接種 スマトラ沖地震 平成16年
    日本赤十字社医療センター所蔵

    手術 パキスタン地震 平成17年

    手術 パキスタン地震 平成17年
    日本赤十字社医療センター所蔵

    10月8日発生(M7.6)。被害はパキスタンのほかに隣接するインド、
    アフガニスタンに及び、犠牲者約8万6千人、被災者400万人、家屋を失った人315万人以上といわれ、被害はスマトラ沖地震より甚大である。

    避難所 阪神大震災 平成7年

    避難所 阪神大震災 平成7年
    日本赤十字社医療センター所蔵

    1995年1月17日発生(M7.2)。死者行方不明者合わせて6,434人、重傷者10,683人。日本赤十字社は発生直後から3月31日までに全47支部から延べ981の救護班(5,959人)を派遣した。

    避難所での診療の様子 新潟中越地震 平成16年

    避難所での診療の様子 新潟中越地震 平成16年
    日本赤十字社医療センター所蔵

    10月23日発生(M6.8)。死者40人、負傷者4,543人、住宅被害約10万棟。自家用車で生活する被害者の深部静脈血栓症が問題となった。

    1995年の阪神大震災では、経路遮断による救護活動の遅延、医療施設の破壊、医療資源の圧倒的な不足、ライフラインの停止によるシステムダウン、被災者の衛生環境の悪化、心理的外傷等、広域かつ大規模災害での問題がふたたび注目されるようになりました。
    地震は日本の特徴的な災害であり、近い将来には東海・東南海・南海地震ならびに津波の発生が予測されているなど、大規模災害における医療体制の構築は、今日の国民的課題となっています。

    テント

    テント
    日本赤十字社医療センター所蔵

    災害が発生すると、ただちに救護班(1班あたり医師・看護師等6名)やdERU(国内型緊急対応ユニット)を派遣。救護所の設置、被災現場や避難所への巡回診療、こころのケアなどの活動を行なっている。

    医療材料

    医療材料
    日本赤十字社医療センター所蔵