展示Exhibition

特別・企画展

企画展

  • 「1890(明治23)年
        トルコ軍艦エルトゥールル号遭難事故と日本赤十字社の活動」

    2008年7月〜

  • はじめに

    1890(明治23)年9月16日、トルコ軍艦エルトゥールル号は天皇陛下に勲章を贈呈し、3ヶ月以上に及ぶ日本滞在を終えて横須賀港を出航し南下する途中、台風の暴風雨圏に突入し、午後9時30分頃、和歌山県大島樫野崎にほど近い場所で座礁・沈没、死者587名、生存者69名の海難事件となりました。

    串本町樫野の海岸線

    串本町樫野の海岸線

    写樫野埼灯台(和歌山県串本町大島)

    樫野埼灯台(和歌山県串本町大島)

    ボスポラス海峡に停泊中のエルトゥールル号

    ボスポラス海峡に停泊中のエルトゥールル号
    写真提供:串本町役場

    当時、日本赤十字社は戦時救護のみを社の事業としていましたが、宮内省の要請により医員看護婦を派遣しました。大島にて救出された生存者が神戸港に停泊中のドイツ軍艦ウォルフ号の好意により神戸に航送されたため、日本赤十字社の一行は神戸の和田岬消毒所を仮病院とし12日間にわたり、負傷者を救護しました。
    日本赤十字社にとっては明治21年の磐梯山噴火に続いて2度目の災害救護、そして初の国際救援となりました。この企画展では、日本赤十字社が救護員を派遣した経緯、トルコ軍艦乗組員に対する救護活動の実際について見てみたいと思います。

  • 1. 海難事件に対する各省・各大臣の対応

    事件の発生に関する第一報は、9月18日午後9時45分に大島の沖周村長から海軍省に送られました。しかしこの知らせはすぐには樺山資紀海軍大臣から山縣有朋内閣総理大臣に伝えられませんでした。中央政府がこの事件を知ったのは、翌19日の深夜1時30分に石井忠亮和歌山県知事が海軍省と内務省に発した電報、ほぼ同時刻である2時5分に林菫兵庫県知事が宮内省・内務省に発した電報でした。19日の午後には、天皇の臨御のもとに内閣会議が開かれ、各省の対応が協議されました。
    宮内省はただちに宮内省官吏の土岐豊之助と高橋守政、宮内省式部官の丹羽龍之助、侍医の桂秀馬、侍医医局医員の五藤克巳、侍医局薬丁の山本章五郎の現地派遣を決定しました。また日本赤十字社に対して医員看護婦の派遣を依頼しました。

    日本赤十字社書類綴『士耳其軍艦遭難負傷者救護書類編冊』

    宮内大臣より日本赤十字社宛に送られた救護員派遣を依頼する書状。
    日本赤十字社書類綴『士耳其軍艦遭難負傷者救護書類編冊』
    博物館明治村所蔵

    日本赤十字社は、非常の災害であり、ましてや軍艦の乗組員の死傷であれば、社が救護を行うのは当然であるとして、医員の高橋種紀、野島與四郎、看護婦の副木カンと岡崎クニ(この2名の看護婦は日本赤十字社病院の養成所の卒業生ではなく、従来から病院に勤めていた従来看護婦と呼ばれる女性たちでした)の派遣を決定しました。外務省も交際官試補の松井慶四郎の派遣を決めました。
    また海軍省も19日のうちに大島に向けて軍艦八重山を派遣することを決めました。軍艦八重山は明治23年3月に落成した最新艦であり、当時一番の速力を誇り、通常なら汽車よりも早く、大島に到着できるはずでした。最初の計画では、宮内省・日本赤十字社・外務省の一行は軍艦八重山に搭乗し、大島へと救護に向かう予定でしたが、運悪く八重山は修理中ですぐに出航できなかったため、一行は19日16時45分前年開通したばかりの東海道急行に乗車、神戸を経由し、船で大島に渡る予定で出発しました。
    八重山艦が大島に向けて出発したのは、それから約1日遅れての翌20日の正午でした。

  • 2. ドイツ軍艦ウォルフ号の現場急行

    さて神戸では、先に遭難者2名を搭載し、神戸に到着した防長丸の一件を情報源に、19日『神戸又新日報』が号外を発行、現地で事件が知られる事態になっていました。同日、県庁訪問の答礼のため、神戸港に停泊中のドイツ軍艦ウォルフ号に訪れた林兵庫県知事は、艦長から救護のため大島に出航したいという申し出を受けました。知事はやむなく県官1名をウォルフ号に搭乗させ、罹災者を神戸に連れ帰る目的で、大島に出発させました。
    翌20日の午後1時20分、宮内省、外務省、日本赤十字社の一行が神戸に到着しました。神戸から船で大島に渡航する段取りでしたが、兵庫県知事から負傷者はやがてウォルフ号にて神戸に移送されることを知らされ、行き違いを避けるため大島行きを取りやめました。
    神戸では、ちょうど和田岬消毒所内乗客停留所が空き家であり、衣服、夜具など整備されているとのことで、ここを仮病院(和田岬仮病院)とし、明日の患者受け入れに向けて備えることとなりました。
    9月21日午前6時30分にウォルフ号は神戸に帰還しました。生存者は69名であり、うち2名の健常者は遺体確認のため、大島に残留中とのことでした(他2名は先に防長丸にて神戸に来ていました)。その日の午後より宮内省の侍医ならびに日本赤十字社の医員看護婦による救護活動が開始され、治療は深夜にまで及びました。

    22日の午後2時、軍艦八重山が大島での葬儀を終え、神戸に到着しました。負傷者を東京に回送するか、神戸で治療を続けるかの協議が行われ、23日には神戸において患者の治療を続けることが決まりました。
    開港場をもつ神戸は、生存者たちが本国に帰還するにあたっても便利な地でした。

  • 3. 和田岬仮病院での救護活動

    負傷者の治療と看護

    21日早朝、ドイツ軍艦ウォルフ号が生存者を搭載し、神戸に到着しました。午前10時には2隻の艀船に生存者を移して、水上警察の小蒸気船で曳き、和田岬に上陸しました。まず好物である煙草を一人3本ずつ喫し、準備された洋食で昼食をとりました。
    正午より負傷者の診察治療が開始になりました。宮内省側が侍医2名、薬丁1名、日本赤十字社側が医員2名、看護婦2名による体制でした。無休無息で診療をつづけた結果、夜の12時になってようやく一通りの鑑別治療が終わりました。
    診断の結果、生存者69名のうち、重傷13名、軽傷38名、健康者18名であることがわかりました。重傷者の内訳は骨折2名、大腿手掌の失肉1名、臀部打撲性挫創1名、横腹刺傷1名、大腿鼠径部の刺傷1名、その他骨に達する創傷であり、軽傷者は打撲傷、擦過傷が多く、いずれも創は不潔で、激しい腐敗臭がしました。必要に応じて切開掻爬し、痂皮等は剥離し、カルボル水にて消毒し、防毒し、防腐包帯を施しました。四肢切断を要する患者はいませんでした。
    到着したばかりの負傷者らは、新聞によれば 「樫野崎や大島で貰ひ受けた或いは借りたる汚れ穢れし単衣にてそれも男衣あり女服ある中には猿芝居の衣装の如く半身だけを覆ふにも足らざるほどの衣装を着たるもありし」状態で、日本赤十字社の医員も「使節を失い、又数多の朋友を失い己れ自らすら萬死の中に命は助かりたれども負傷の爲め身体自由ならず只茫然たるさま見るさへ気の毒に思はれる」と記しています。
    生存者たちの年齢はほとんど20代で、最年少が20歳、30代以上は30歳が3名、45歳の士官1名のみでした。英語を理解できた者は士官6名のうち1、2名だけでした。しばらくしてレビーという当地で居酒屋をしていたルーマニア人の通訳を雇い入れることができました。
    診察や手術にあたっては、苦痛に耐えられず、号泣、抵抗、拒否して医員、看護婦を打撃するものもいたと記録されています。トルコの風習で酒は一滴も口にせず、疲労を回復させ、元気を出させるために与えようとしても、皆同じように投げ捨てました。麻酔薬は前顕酒を用いないため、日本人飲酒家に比べると3分の1くらいで十分に効果がありました。
    徐々に遭難者と救護員は馴染み、意思疎通ができるようになり、治療も首尾良く行えるようになりました。事件の衝撃により心身共に虚脱し、消沈していた生存者たちも少しずつ元気を取り戻していきました。外傷性疾患の患者もみな良性の肉芽を生じ軽快に向かいました。
    最後まで病状が心配された2名の肺炎患者については詳しい報告があります(おそらく下の記念写真では看護婦の間に挟まれ、毛布にくるまって座っている男性2名と思われます)。そこには血痰、呼吸苦、胸痛などの訴えの他、発熱、脈拍増加、喀痰困難、食欲不振などの症状の観察、胸部打診によって濁音が観察され、聴診による鼾音・笛音が聴取されたこと、徐々にではあるが病状が回復に向かいつつある様子が記載されています。

    和田岬停留所前での遭難者との記念撮影

    和田岬停留所前での遭難者との記念撮影
    写真提供:串本町役場
    トルコ海軍司令部(TC Deniz Kuvvetleri Komutanlığı)所蔵

    各種新聞はこぞって義捐金を募集し、皇后陛下をはじめ数多くの義捐品も贈呈されました。9月26日午後2時には、丹羽式部官が病院を訪れ、皇后宮からの肌衣一組の他、小松宮ご息所殿下からのビスケットや葡萄が遭難者に下賜されました。同様に、日本赤十字社の佐野常民社長からもハンカチーフの贈呈が行われ、士官5名には英語で慰問状が伝えられました。

    療養環境としての和田岬仮病院

    生存者たちが生活した和田岬仮病院は、『日本赤十字社画壇』には、海を臨む松林の砂浜に隣接した高台に立てられた木造2階建ての建物とそれに続く平屋建てとして描かれています。この絵では、トルコの遭難者たちは景観のよい砂浜で、思い思いに散歩をしたり、運動したりしています。
    仮病院となった和田岬消毒所の乗客停留所にはもともと備え付けの病衣、臥床用の物品などがあり、家屋の構造や備品が整っていました。日本赤十字社の高橋医員は、現地での治療や療養に不自由がないかと心配する中央政府に対して、看護婦たちの尽力により救護材料なども整頓されたため、病院として十分に機能していること、仮病院は既設の病院と見られるほど整っており、訪れた県官やドイツ軍医も感心していたと報告しました。

    『日本赤十字社面談』明治35年刊

    『日本赤十字社画談』明治35年刊
    第十二和田岬仮病院に軽快の士耳其傷兵運動に余念なし
    日本赤十字看護大学所蔵

    仮病院には下等室と称する6畳敷の室が20あり、1室あたり適宜2〜4人を収容し、上等室は式部官等の出張所及び事務所に充てられました。そのうち9号室、10号室は看護婦の部屋でした。翌日の22日からは1階は重傷者、軽傷者、健康者の部屋に分けられ、2階の士官の部屋とし、士官と下士官たちが別の部屋で生活できるように遇しました。
    神戸に着いて以来、宮内省の経費によって3食すべて西洋食が与えられました。食事についても士官と下士官以下とは別でした。軽症患者には入浴が行われ、足を負傷した患者に特別に杖が作られました。軽傷者たちは入浴を好み、日に何度も湯浴みをしたり、将棋に似たゲームに興じたり、日本の高下駄をうまく履きこなしたといいます。八重山艦長三浦大佐、加々見軍医大監らも健康な5名の士官を伴い、神戸市内自由亭において晩餐を饗したりしました。

    医療チーム

    24日には宮内省から正式に侍医等に対して帰京の命令が下り、26日以降、治療は日本赤十字社が一手に引き受けることになりました。日本赤十字社の高橋医員は、本社に向けて、しばらく神戸にて救護を続ける上で必要なので、追加の看護婦、調整や報告にあたる事務員、薬剤師を送ってほしいと要求しました。
    これを受けて、日本赤十字社は、事務員岩崎駒太郎、調剤員渡邊勝四郎、看護婦山中サク、中島クニ2名に包帯材料を携帯させ、新橋を出発させました。同日午後6時、現地に大阪衛戌病院長菊池篤忠より、日本赤十字社病院の院長の依頼により包帯材料などで必要なものがあれば請求してほしい、請求され次第送付するとの旨の電報が送られました。
    開業医らの助力の申し出もありました。23日午後、当地の開業医佐野誉他3名が来訪し、本社正社員であることをもって、必要に応じ治療を分担したいと篤志を表しました。日本赤十字社の佐野常民社長は、開業医の願い出を許可するように取り計らいました。

  • 4. 県への引き渡しと本国送還

    26日、県への引き渡しの件が未決のまま、軍艦比叡金剛による生存者たちのトルコ本国送還が決定されました。遭難から10日後、神戸移送されてから5日後という早い決断でした。このような早い決断の背景には世論の後押しもありました。
    トルコ軍艦の沈没事件の4年前、同じ紀州沖でイギリスの汽船ノルマントン号が遭難する事件が起こり、その際日本人乗客を救助しなかったイギリス人船長の非人道的行為が問題となりました。そのような背景もあり、今回のエルトゥールル号の海難事件には国民の大きな関心が寄せられました。新聞も遭難したトルコの軍人を憐れみ、手厚く看護することで、日本人の美徳を世界の人々にアピールせよと書いて世論を盛りたてました。
    また大島での遭難者救助に関して、軍艦八重山がウォルフ号に先を越されたことに対して国民から遺憾の声があがりました。加えて9月23日ロシア公使から青木外相に対して生存者をロシア軍艦で送還したい旨の打診があり、青木外相がこれを承諾したために、海軍部内の人々が激昂しているという風聞が広まり、一時、外務省批判、海軍省擁護の世論が高まるという出来事がありました。青木外相は、日本の軍艦で送還するとなると予算のことなど一大臣の考えで決定できないため、返答をしなかったというのが事実のようですが、これをめぐって『時事新報』は、ロシア軍艦による送還となると外交上の大問題であり、日本の体面を考えれば、費用を論ぜず、日本の軍艦で送還せよと論じました。
    9月30日には兵庫県側が遭難者たちの引き取りを了承しました。これをうけて日本赤十字社の一行は10月1日に遭難者に携帯させるため記念写真を撮影し、10月2日に遭難者全員を県庁に引き渡しました。遭難者たちは慣れ親しんだ救護員たちの残留を希望したため、日本赤十字社は県病院の補助として野島医員と看護婦2名(橋本カン、岡崎クニ)を残留させ、必要な器械、包帯材料を残した上で引き渡しを行いました。
    遭難者たちは10月10日には軍艦金剛と比叡に分乗し、トルコに向かって翌日の11日未明、次の目的地である長崎に向かいました。

    エルトゥールル号の乗船員

    エルトゥールル号の乗船員
    写真提供:串本町役場

  • おわりに

    この海難事件では日本赤十字社は、中央政府が事件の発生を知った19日のうちに、宮内省からの要請を受け、医員と看護婦を出発させました。このように迅速な対応の背景には、戦時救護を目的として、病院をつくり医員や看護婦の準備を進めていたことがあります。2年前の明治21年に起こった磐梯山噴火での救護活動の経験も活かされました(このとき日本赤十字社は宮内省からの要請を受け、初めて災害において救護員を派遣しました)。創立以来、日本赤十字社は皇后のもとに置かれ、その庇護のもとに事業を拡大しつつあり、宮内省との関係が深かったことも、災害救護に着手する一つのきっかけとなりました。

    エルトゥールル号遭難慰霊碑

    エルトゥールル号遭難慰霊碑

    この事件では、途中、ウォルフ号による負傷者の神戸への移送など予想外の出来事もありましたが、地方行政と中央政府がそれぞれ柔軟に対応し、協力した結果、罹災者本位の救護を行うことができました。日本赤十字社の行った医療救護は、人道的援助という意味でも、また日本の天皇陛下への拝謁を目的として派遣された外国の使節たちであったという経緯において、トルコ国民に厚意を伝え、両国の友好を深めるという意味でも、成功であったと考えられます。
    しかし災害救護の観点からみると、日本赤十字社が実際に活動を行ったのは、事故が発生してから6日後の時点であり、初期救護というには遅い開始でした。当時の通信や交通事情により、現地から事件発生の連絡が届くまでに時間がかかったのが原因です。この災害では日本赤十字社は急性期から回復期にかけての患者の治療と看護を担ったと考えられます。
    初の国際救援であり、救護活動が開始された当初は、遭難者と言語が通じないことや、文化習慣が違うことなどが救護の支障となりました。しかし少しずつ意思疎通ができるようになると、突然の不幸に見舞われた彼らの身上を気の毒にも思い、丁寧に治療看護を行うとともに、歩行が不自由なものには杖を用意し、また士官は士官として下士官とは別の身分相応に遇するなどの配慮も行いました。
    この災害ではとりわけ和田岬消毒所という整備された療養環境がすぐに利用できたことの利点は大きかったと考えます。人員材料に困ることはなかったのも特徴です。地震などの災害では、広域にわたり住居が破壊され、医療者や医療材料も被災して、療養環境を整えること自体が難しいこともあります。その場合、不衛生な環境のために治療過程で合併症を併発し、感染症が流行することも少なくありません。コレラが流行していた神戸の市街地からも離れており、このような場所で療養できたことは彼らの心身の回復にもよい影響を及ぼしたと考えられます。