展示Exhibition

特別・企画展

新校舎竣工記念特別展示

  • 「看護の学び舎〜日本赤十字社病院・養成所の変遷〜」

    2006年11月27日(月)〜 2007年3月12日(月)

  • はじめに

    2006年、広尾地区再建整備の一環として大学の新しい校舎が竣工、落成式の運びとなりました。これを記念して、「看護の学び舎」と題し、日本赤十字社病院に看護婦養成所が設置された1890年から今日まで、看護をめざす生徒・学生たちが学んだ校舎と実習病院を振り返ってみたいと思います。

  • 飯田町の病院と看護婦養成所の開設

    日本赤十字社の前身である博愛社が、平時に救護員を養成するために設置した病院です。東京府麹町区飯田町(現在の千代田区飯田町駅附近)の陸軍省用地を借用し、青山南町の旧青山家建物8棟の払い下げを受けて建築され、1886年11月17日に開院しました。同年東京府に提出された私立病院設立願には、設立の目的が戦時の負傷者を救護する看護婦の養成であることが記されています。1886年11月15日、政府のジュネーブ条約(赤十字条約)公布により、博愛社は日本赤十字社と改称し、それに伴って病院も1887年5月20日に日本赤十字社病院と改称しました。
    初代病院長の橋本綱常は、看護婦を教育する医員や教材の準備を整え、1890年4月1日に看護婦養成所を発足しました。第1回生は10名で、解剖学・生理学・消毒法・看護法・治療介輔・包帯法・救急法・傷者運搬法の8教科すべてを日赤病院の医員が担当しました。当初は寄宿舎がなかったので、生徒たちは父兄や親戚の家から通学し、午前中は学科、午後は実地の教育を受けました。
    開院当時の病院を知る資料はあまり残されていませんが、病棟は現在の渋谷の地に移転する際に移築され、昭和前期まで存在しました。

    歴史画談

    歴史画談

  • 近代的な病院建築日本赤十字社病院

    受診患者の増加により病院の拡張が必要となり、1891年、飯田町の病院は東京府南豊島郡渋谷村(現在の渋谷区広尾)に移転することになりました。この地はかつて下総佐倉藩堀田家の下屋敷のあった場所で、その高台から見下ろす広尾の原は、四季を通じて自然豊かで、庶民の散歩散策の場となっていました。
    新病院は、赤坂離宮などの設計で知られる宮廷建築家、片山東熊によって設計されました。三宅博士の持ち帰ったドイツのハイデルベルヒ大学病院の設計図を模して汚水の消毒まで完備し、当時としては最新の設備を誇りました。病院には中庭を囲んで東西5群10棟に分かれた木造の病棟を配し、北側に煉瓦造りの本館、南側に内臓手術室がありました。現在医療センターにある立派な松はその中庭にあったものです。
    看護婦生徒の教場および寄宿舎は、飯田町にあった病棟を移築したものでした。そののち病棟の増加とともに、生徒と看護婦の寄宿舎の増築が繰り返されました。

    明治24年病院配置図

    明治24年病院配置図

    病院の回廊と中庭

    病院の回廊と中庭

  • 看護婦教養所の完成

    1935年に新しい看護婦教養所が建築されました。関東大震災の教訓を活かし、ヨーロッパの病院建築の視察を経て、病院をはじめ教場・寄宿舎のすべてを鉄筋コンクリート造りの耐震耐火建築にする計画がたてられました。設計は大阪赤十字病院の建築技師木子七郎があたりました。病院改築計画のなかで、はじめに看護婦教養所の工事に着手した背景には、看護婦監督であった萩原タケの「赤十字社病院は本来救護看護婦を養成するのが使命だから」との強い主張があったといわれています。
    教場は「聚徒教習」の古語から教習館と名づけられ、看護婦・生徒寮は、孟子の「養心莫良於寡欲」の語句、すなわち「我が本心を養う」意味で、養心寮と名づけられました。教習館は鉄筋コンクリート造り、地下1階地上3階建てであり、養心寮の居室はすべて洋式で、暖房やエレベーターまで完備し、まさに当時にあっては東洋一の建物でした。教養所を含む病院の第1期工事は1936年に完成しましたが、病棟、手術室などの第2期工事は日華事変のために中止されたため、明治期以来の木造の病棟建物は1976年の日赤医療センターの改築まで使用されつづけました。

    昭和12年病院配置図

    昭和12年病院配置図

    看護婦教養所

    看護婦教養所

    教室での授業

    教室での授業

  • 戦後の新しい看護教育と教養所・病院建物

    1946年、日赤の救護看護婦養成所とアメリカ軍によって校舎を接収された聖路加女子専門学校は、連合軍総司令部(GHQ)の指導のもと、わが国の新しい看護教育のモデルを示すべく東京模範看護学院を運営することになりました。これを受けて養成所は専門学校令のもと、財団法人日本赤十字女子専門学校となりました。
    日赤と聖路加の合同教育では、日赤の看護婦教養所と中央病院が使用されました。引きつづき看護婦不足は深刻で、病棟での看護は学生によって維持されていました。また模範学院にはGHQからの寄付により新品の寝具や看護用具がありましたが、病院のものは粗末であったといいます。病棟の廊下の床板はところどころ穴が開いていて、ストレッチャーの車輪の落下防止と注意喚起のためにチョークで印がつけられていたそうです。
    東京模範看護学院は1953年に解散しました。1954年からは学校法人日本赤十字女子短期大学となり、看護婦教養所の建物はそのまま使用されました。1959年には養心寮の南側に鉄筋コンクリート造り4階建ての学生寮が新築されました。

    日本赤十字女子専門学校

    日本赤十字女子専門学校

    病棟実習

    病棟実習

  • 短大新校舎と新養心寮 日赤医療センター

    日赤病院の建物は戦争により改築の機会を逸したために、その後の医療技術の進歩に即応せず、また老朽化して耐火基準を満たさない建物となっていました。そのため中央病院と産院を統合して日本赤十字社医療センターとし、新病院を建設することになりました。
    1974年にはかつての担架の原に、短期大学の新校舎と学生寮が完成しました。これが現在取り壊されつつある大学の旧校舎にあたります。地上7階地下1階であり、講堂、体育館、プールなどの施設がありました。また学生寮は地上10階建てで、旧教養所の寮の名称を踏襲し、養心寮と呼ばれました。
    つづいて1976年、日赤医療センターが落成しました。現在の医療センターの建物です。なおこの改築に際して旧中央病院病棟の一部は、博物館明治村に移築復元され、保存されています。
    1986年に日本赤十字看護大学が開学し、短大の校舎をそのまま使用して、高度の看護教育がすすめられることになりました。

    校舎(短大~大学)

    校舎(短大~大学)

    階段教室での授業

    階段教室での授業

  • 日赤武蔵野短大との統合、広尾キャンパスの新校舎落成

    2005年、大学は日本赤十字武蔵野短期大学と統合し、広尾地区再建整備の一環として広尾キャンパスの新校舎が2006年竣工、11月に落成式の運びとなりました。新校舎は4階建て東側建物と6階建ての南側建物の2棟からなり、L字型となっています。あわせて600人を収容することのできる大きな講堂(広尾ホール)ができ、その地階は日赤本社の救護倉庫となりました。4つの実習室が整備されるとともに、南側建物の地階には13万冊収容可能な図書館ができました。また随所に学生が息抜きのできるアメニティに配慮した空間がもうけられました。
    2007年には職員宿舎・乳児院・上宮保育園、2009年には医療センター、2010年以降は老人保健施設・特別養護老人ホーム等の建物が順に完成する予定です。医療センターと看護大学が中核となり、その連携のもとに、保健、医療、看護、福祉の各種サービスを地域の対象者のニーズに応じて提供する、新しい総合医療福祉サービスの拠点となることをめざしています。

    新校舎と旧校舎

    新校舎と旧校舎